テーマ「戦争と死刑」
報告者 太田昌国(現代企画室)
『国家に握られた「人の死」をもたらす権限-死刑と戦争をめぐって』
討論者 清末愛砂(島根大)
司会 越田清和(さっぽろ自由学校「遊」)
この分科会では死刑と戦争という国家による「殺人行為」をつなげて考え、国家による暴力廃絶への視点について話し合った。報告者の太田昌国さんは、カンボジアPKOに日本が参加することをきっかけに、もう一度、国軍を廃絶する道のりを考えるようになったことから話を始めた。
この20年は、軍隊が公然と社会に浮上し、同時に、死刑を待ち望む世論が形成された時代でもあった。しかし1950年代には「戦争放棄と死刑廃止は同じ」「どうして戦争を放棄して死刑を廃止できないのか」という議論が盛んだった。その後は議論の幅が狭まり、日本社会の中では死刑廃止の世論や司法判断が形成されなかった。
1990年代からの20年間をふりかえると、オウム真理教による地下鉄サリン事件が典型的なように、テレビメディアを中心に、こんな「凶悪な事件」を起こした人間は死刑が当然だという社会的風潮が拡大した。そして2000年代になると世界的に「テロと戦争」の時代に入り、日本的には、9・11、アフガン戦争、イラク戦争、「拉致」などによって軍事(=自衛隊)が社会の只中に急浮上してきた。憲法第9条の精神も、憲法36条の「残虐な刑罰禁止する」という精神もないがしろされるようになった。
「他人に死を与える権限」が、なぜ、死刑と戦争を通じて、ひとり「国家」には許されているのか。このような秘密をなぜ国家が手にしているのか。この問題を解かなければならない。戦争と死刑を考えた時に、死刑制度を廃止し得た国家は多い。それらの諸国は、「国家」の存立条件として、死刑制度が必要不可欠だとか考えているわけではない。またEUは、加盟の条件として、死刑制度を廃止している国家であることを挙げている。しかしアフガニスタンやイラクでの戦争には参画しているEUの国もある。
死刑廃止議員連盟には、自民党をはじめ全ての政党から参加しているから、政治レベルでの賢明なる政策提案によって、死刑廃止が進むかもしれない。私たちがめざすのは、競争・対立・威嚇・暴力が肯定される社会から、共生・共存・協働・相互扶助・人間の尊厳の尊重などが原理となっている社会へ変えていくことではないか。
討論者の清末愛砂さんは、反戦問題などに関わる仲間の中でも死刑廃止になると意見が異なるという自分の経験から話をはじめた。平和学を考える時にも「いのち」を重視することが重要ではないか。生きることを否定されることは差別ではあると考えることが死刑を考える時の重要な視点になるとコメントした。
その後の議論では、国家による虐殺の責任者(例えば昭和天皇)に対する処罰をどうすればいいのか、死刑制度がなくなったとしても国家による「超法規的な殺人」はなくならないのではないか、スリランカは国連によって戦争犯罪を犯した国とされたが国家犯罪をめぐるダブルスタンダードがある、などの質問が出た。
国家による犯罪や殺人をどう考えるか、それを変えていく社会の原理をどうつくるかなど、大きい枠組みについてまじめに議論する分科会になった。(越田清和)