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■分科会「グローバルヒバクシャ」報告
11/28分科会テーマ:核被害の探求
司会:中原聖乃(中京大・非常勤)
報告:今中哲二(京都大原子炉実験所)「チェルノブイリ事故調査を通じて学んだこと――科学的アプローチで明らかに出来るものと出来ないもの」
報告:振津かつみ(兵庫医科大・非常勤、ウラン兵器禁止を求める国際連合[ICBUW]運営委員)「ロザリー・バーテル博士から学ぶ」
討論:竹峰誠一郎(三重大・研究員)
11/28分科会グローバルヒバクシャは「核被害の探求」をテーマに開催した。
最初に報告いただいた今中氏は、原子力工学者の中でユニークな存在で、原子力発電を推進ではなく、その危険性の解明に取り組まれてきた方である。1986年に旧ソ連のウクライナで発生したチェルノブイリ事故の解明にも20年以上にわたってたずさわってきた。それらを踏まえチェルノブイリ報告から学んだことを報告いただいた。
「爆発炎上のプロセスと、どれだけの放射能がまきちらかされ、どれだけ汚染が発生し、どれだけ健康被害があるのかを、きちっと見積もるのが事故の解明だと20年前は考えていた」と、チェルノブイリ調査を開始した頃を今中氏は回顧した。「しかしそれだけではとてもすまないことがわかった」と言う。
事故から10年経て、日本原子力学会誌でチェルノブイリ特集号が組まれたが、最悪の事故だったけど世間で言われるほど大した事故ではなかったというような結論になっていたことを今中氏は紹介し、「原発の周りに人が住んでいたという認識が彼らにはない」と批判した。忘れてはならないことは「突然まわりの村や町がなくなり、地域社会が消滅することだ」と指摘し、地域社会の消滅も被害としてとらえていく必要性が強調された。奈良県の面積とほぼ同じ3700平方キロが現在でも立入禁止区域であり、約1万平方キロという広大な土地から人びとが移動を余儀なくされたと言う。しかしその問題がほとんど認識されていないと、今中氏は指摘する。
またチェルノブイリ事故の被害をめぐり二つの対照的な数字を今中氏は提示した。IAEAなどの専門家が集まってまとめたチェルノブイリフォーラム報告書(2005年)は放射線被曝が原因と認定された死者は56人と結論づけた。一方ウクライナ政府の委員会により、世帯主の死がチェルノブイリ事故に関係していると認定され、補償を受けている家族の数は1万9千人におよぶと言う。「56人と1万9千人というこの数字のギャップをどうとらえるのか、それがわれわれ事故というのをとらえるうえで大事なのではないか」と今中氏は問題提起をした。さらに「科学的アプローチと言うのは、科学的にはっきりしたものだけしか採用しませんから、そこにこだわると大事なこと、肝心なことが落ちてしまうのではないか」とも述べ、「専門家的アプローチ」で明らかにできることは、チェルノブイリ事故という災厄の一側面でしかない」と今中氏は結論づけた。
続いて、核被害を粘り強く探求されてきた先駆者の一人であるロザリー・バーテル氏の仕事を振り返り、どう学び引き継いでいくのか、振津氏から報告がなされた。振津氏は、内科医で、チェルノブイリをはじめ世界の核被害の問題に積極的に関わり、ロザリー・バーテル氏とも直接面識があり、懇意にされている方である。
ロザリー・バーテル氏の歩みを振り返り、カソリックの修道女になり、教員として働いた後、生物学の領域で数学を応用し博士号を得て、後にヒバクや環境問題にとりくむバックグラウンドとなったことがまず紹介された。彼女の転機になったのは1970年からたずさわった白血病調査で、白血病のリスク増加の背景に、医療用診断の放射線被曝があることを数学的につきとめ、「常日頃大丈夫だと言われている、線量にしては低い被曝であっても、数学的に処理をすると、白血病が増えることを科学者として知ってしまった」と、振津氏は指摘した。
同調査の報告をして欲しいということから、原発反対の市民運動と関わることになったが、市民に知らせる活動をやると研究者として食べていけなくなると、修道院にこもり1年間悩み考えたエピソードを振津氏は紹介した。広島・長崎原爆の文献も読み、被害を無くすために活動することを決意する。国と原子力産業の圧力で研究費を打ち切られ、研究所を辞職する。アカデミックな場を去り、聖職者として人びとに還元していく道をとる。
原水禁運動に参加し、世界のヒバクシャの姿を見て、グローバルに手を結んでいく必要性を学び、「科学者のサポートを必要とする場で、現場にも足を運び、核被害者の立場に立って行動してくれる科学者」として生き、「推進派には命を狙われることもあった」と言う。1984年には「公衆衛生を憂慮する国際研究所」を創設し、放射線だけでなく、環境問題も視野に入れ研究活動を展開した。「危篤」状態から奇跡的な復活を遂げ、最近も劣化ウランの危険性について発言したり、いつも前向きな姿勢も紹介された。
ロザリー氏から学ぶべきこととして、1)被害者を研究対象として見るのではなく、常に被害者とともに、被害者の生活を実際的に支援してきたこと、2)「加害側」への妥協のない批判、3)地域で被害者と共に問題に取り組みながら、宇宙の中の地球というグローバルな視野をもち、警告するだけでなく運動のやり方も提起してきた、などが指摘された。「連綿と続く生命を尊び、行動するのは自然で、行動できないのは苦痛」とのロザリー氏の言葉も最後に紹介された。
討論者の竹峰からは「ロザリー氏は加害はどうとらえていたのか」等の質問と共に、「発表されている核被害者の数でわかったつもりになるのではなく、核被害のくくり方に着目する必要がある」等の指摘がなされた。討論者からの質問に答え今中氏からは「専門家」とは「原子力専門家」のことであり、核被害の探求に向け、原子力専門家だけではなく、市民運動家やジャーナリストや写真家も交え、医学者や社会科学者なども含めた多角的アプローチが必要で、20世紀の原子力の不始末を多角的にしっかり記録することが大切だとの発言がなされた。また「事実を明らかにしないということにも科学は使われている」との指摘もなされた。会場からは、キリスト教と言っても多様なので、聖職者としてロザリー氏の背景は、より注意深く観ていく必要があるなども指摘された。
ややもすると核被害は悲惨なものとの一言で片付けられるが、そう簡単にとらえるものではない。核被害の探求は、分科会「グローバルヒバクシャ」の中心的なテーマとして、今後も多角的に取り組んでいきたい。(竹峰誠一郎)
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■分科会「グローバルヒバクシャ」報告
11/29分科会テーマ:ヒロシマ・ナガサキのイメージ
司会:中尾麻伊香(東京大学院生)
報告:安藤裕子(早稲田大学特別研究員)「ヒロシマ・ナガサキはどう表象されてきたのか――公的記憶の変遷を辿る」
報告:川口悠子(東京大学院生)「『和解の旅』――ヒロシマ・ピース・センター・アソシエーツ設立過程における谷本清の役割」
討論:ロニー・アレキサンダー(神戸大学)
11/29分科会グローバルヒバクシャは「ヒロシマ・ナガサキのイメージ」をテーマに開催した。各報告の要旨は以下の通りである。
安藤報告は、戦後日本におけるヒロシマ・ナガサキの表象と公的記憶の形成のあり方を4つの表象の場(教科書、博物館・資料館、報道、大衆文化)を通じて考察しようと試みるものであった。ヒロシマ・ナガサキの公的記憶は戦後早期に「被害と敗戦の象徴」、「唯一の被爆国」の2つの語りに集約され、70年代後半まで「国家の記憶」として教科書や博物館・資料館の場を中心に語り継がれてきた。しかし、報道や大衆文化の場ではこれとは異なる個人や集団の保有する「周辺の記憶」が随時発見されてきた。これらが公的記憶に揺さぶりをかけることで、80年代から徐々に教科書や博物館・資料館における表象にも変化が見られるようになった。「原爆被害の悲惨」の表象には客観化、相対化の力が働き、加害認識やグローバルヒバクシャの視点が取り込まれ、「唯一の被爆国」の語りが後退していったのである。今後も報道や大衆文化の場を中心に、ヒロシマ・ナガサキを過去の出来事としてのみでなく、その時代に暮らす私達が向き合っている問題と連関して記憶する努力が続いていくと思われる。「歴史の記憶」のダイナミズムの中で、我々は常にヒロシマ・ナガサキの現代的位置を問い続け、その積み重なりの中にヒロシマ・ナガサキを記憶する普遍的意味を見出していかねばならない。
川口報告は、広島の谷本清牧師が渡米した1948年10月からヒロシマ・ピース・センター・アソシエーツ(谷本が構想したヒロシマ・ピース・センター(HPC)の協力団体、以以下HPCA)が設立された1949年3月までに焦点を絞り、谷本がHPCAの設立にどのようにかかわっていたのかを明らかにした。そもそも、国際的平和運動と被爆者救援事業をおこなうピース・センターを設立するというHPCAの構想は谷本によるものだった。訪米の機会を得た谷本は支援者を求めて奔走し、著名な国際主義的ジャーナリストらの支援を得たことでHPCAの設立に成功した。その際谷本は米国社会の広島に対する関心に訴えること、とりわけ日米和解を呼びかける語りの中にピース・センター構想を位置づけることが戦略として有効だと考えていた。従来、HPC/HPCAはしばしば米国から日本への一方向的な働きかけとして見られがちだった。しかしHPCAの設立過程では、谷本がこのように米国側に積極的にはたらきかけたことがきわめて大きな役割を果たしていたのである。この事例はまた、戦後初期の日本における原爆被害に関する認識の形成過程をトランスナショナルな視座から再検討する必要性も示している。
報告に続くロニー・アレキサンダー会員のコメントでは、記憶の形成そのものを政治的なものとしてとらえる視点が必要なのではないかという指摘や、なぜ谷本は米国で支援を得ることが出来たのかを考える必要があること、その際全く対等ではなかった日米の権力関係を考慮すべきである等の指摘がなされた。また、人間としての被爆者自身は二人の研究のどこに入ってくるのかという質問もなされた。
その後の議論では、会場から、表象されていないものや、消された表象も射程に入れる重要性や、広島と長崎の違いを考慮する必要性等が指摘された。ヒバクシャと表象はどのようにつながるのか、被爆体験が風化しているといわれる今日まさにアクチュアルな問題が議論された。
(中尾麻伊香、安藤裕子、川口悠子)
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■その他
分科会グローバルヒバクシャの母体であるグローバルヒバクシャ研究会は、11月8日に名古屋で世界平和七人アピール委員会と共催し、第19回目となる研究会を開催した。
前半は、世界平和アピール七人委員会のメンバーである長崎大学名誉教授の土山秀夫氏に「被爆地長崎から今伝えたいこと」と題し、国内外の変化を見据え、核兵器廃絶に向けたこの好機をいかにつかんでいくのか問題提起をいただいいた。
後半は、原爆症認定集団訴訟の成果を踏まえつつ、被爆の実相をどうとらえるのか、裁判で原告側証人にも立ってきた、広島の被爆者でもある沢田昭二氏(名古屋大学名誉教授)に問題提起をいただき、被爆の実相にどう迫っていけばいいのか、大学生や被爆者も交え、世代を超え議論を深めた。(竹峰誠一郎)
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